ハム太郎の妄想劇場

ハム太郎の灰色の脳細胞が紡ぐ物語です。

追い求める幻影

ここは、俺の居場所じゃない。

俺が求めているのはこの女(ひと)じゃない。

俺が憧れた家庭はこれじゃない。

俺の子供はこんな子じゃない。

 

俺はドロップアウトしたのだろうか?

 

川の流れにちょぼちょぼと水が刺さる音がする。

男は小便をしていた。

川の水は男の小便を飲み込んで何もなかったかのように流れ去る。幾つかの泡を残したまま流れていく。

やがてその泡も弾けて消えて行く。

 

女房に子供二人。

ローンで買った建売住宅。

記念樹になにか実のなる木が良いと柿の木を植えた。 

ときには家庭って良いもんだと思っていた。

仕事で帰ってくる。

温かい夕餉が待っている。

 

一本のビールと余分に一品のおかずが父親としての特権だった。

妻にもコップ一杯のビールをすすめる。

妻は美味しそうに喉を鳴らしてビールを飲むと、少し和らいだ表情で今日あったことなどを喋りだす。

 

子供はテレビに夢中になっている。

「ねえ、聞いているの?」

「あ、ああ、聞いてるよ」

「嘘ばっかり、テレビをチラチラ観ているだけじゃないの」

「そういうお前だって、テレビを観て時々笑い声を出しているじゃないか」

「だって志村けんって、面白すぎちゃうもの」

 

いつの間にかテレビが家の中の主役だった。

 

仕事でなんとか中堅になり、仕事後の仕事的付き合いも多くなって帰宅が遅くなった。

誰もいないテーブルに軽い食事が置いてある。

妻も自分の部屋に戻っているのだろう。

子どもたちもそれぞれ自分の部屋でなにかしているのだろうか、リビングで顔を合わすことが少なくなった。

 

二人目の子供が一人暮らしを始めた。

 

新婚の頃のように妻と二人だけの暮らしに戻った。

新婚の頃とは違ってお互い相手に関心がない。

義務的に仕事に行く。

僅かに残っているローンの支払いと生活費を稼ぐために。

 

ある時、妻はパートに出たいと言った。

気晴らしになるならと認めた。

妻が稼いだ金は何に使っているのか知らなかった。

妻の稼いだ金は妻が使えば良いと思っていた。

 

男は定年退職した。

再雇用も再就職もしなかった。

ローンは終わったし多少の蓄えもある。

もう仕事はしたくなかった。

 

妻はパートの仕事を幾つか変えていた。

あるときは生命保険の外交で生保レディをやっていた。

良い年をして何が生保レディだと思わなくもないが、妻が日々若返るようになる感じで生きがいを感じているのならそれもいいだろうと思った。

 

定年退職した男はいつしか自分で弁当を作って、天気の良い日には多摩川の河川敷に遊びに行くようになった。

 

そのうちに釣り竿も持って多摩川に行き、日がなぼお~っとすることが多くなった。

釣りをするが釣りをするわけでもない。

時々魚が釣れる。

釣ってもすぐに逃がす。

キャッチ・アンド・リリースだがそんな洒落たことではない。

釣った魚が面倒だから釣り上げたら捨てているだけだ。

 

夕方帰ってきても夕食の用意がないのはもう分かっている。

男はそれが分かっているから、途中のコンビニで弁当と缶酎ハイを買って帰る。

一人でテレビを観るともなしに夕餉を始める。

夜の十時を過ぎても妻は帰ってこない。

 

男は妻が夜の勤めに出たことを知っている。

朝も遅くまで寝ているみたいだ。

お互いに別々の部屋で寝起きしているので、小さな建売住宅であっても何日も顔を合わさないなんてことも不思議じゃなかった。

もはや同居者ともいえない二人の関係だった。

 

静かな水面に映る男の顔にシワが深い。

「よおゲンさん、おはよう」

そう言いながら男が寄ってきた。

寄ってきた男は、男と言うよりただの男の抜け殻のような生き物だ。

それはゲンと呼ばれた男も同じであった。

 

「ゲンさん、この辺もちょっとやばいよ」

「ああ、そうらしいなあ」

「俺、何処か別の場所に移ろうかと思っている。あんたどうするゲンさん?」

ゲンと呼ばれる男はしばらく考えて「俺はここにもう少しいるよ」と答えていた。

「そうか、俺のバットをお前にやるから気をつけろよ」

 

バットをやると言った男はゲンという男に、ここでの生活のいろはを教えてくれた男だった。

男というのは性別としての男というだけで、雄としての男という意味ではない。

その男二人は共に既に初老という雰囲気だった。

 

日当たりが良い河川敷で、目が開いてなければどっちが前か後ろかわからないほど、顔から首周りが茶色く色づいている。

首には老人だるみが皺となっておよその年齢を想像させる。

 

男が去ってしばらく経ってもゲンと言われた男はまだ河川敷にいた。

ダンボールで組み建てた部屋みたいなものに、その上にブルーシートで雨避けを兼ねた補強を施して河川敷に住んでいた。

男がこの河川敷にいつくようになってどれほどの時が流れたか、ゲンと言われた男は覚えていなかった。

 

夜の9時頃だったろうか…

 

「ポトン」と音がした。

ゲンという男はブルーシートハウスの中でまどろみかけていた。

さっき見上げた月が大きくてきれいだったなあと思いつつまどろんでいて、またポトンと音がした。

誰かがブルーシートハウスに小石でも投げたのだろう。

たいてい一個か二個石を投げたら行ってしまうので、そのままにして目を閉じた。

 

「ぐしゃん」とう大きな音がしてブルーシートハウスの一角が陥没した。

その周りの什器備品が「ぐちゃわんわん」と音を立てた。

これはたまらない「こらっ」っとい大きな声を立てた。

ゲンという男は大きな声を出したつもりだが、その声はかすれていた。

 

男はブルーシートハウスから体を出すと、多くの石の礫がゲンをめがけて飛んできた。

土手の上から三人が石を投げていた。

まだ子供っぽい感じもするが三人の男たちだった。

一つの石がゲンの右のこめかみを直撃した。

ゲンはふらっとよろけて、ブルーシートハウスを押しつぶしながら倒れて気を失った。

 

わらわらと三人の男たちが駆けてきた。

「死んだのかな」

「あんなんで、死ぬかよ」

「腹を蹴飛ばしてみろよ」

一人の男がゲンの横腹を蹴り上げようとした時、ゲンは意識を戻して反射的に身を翻した。そのときに腹をけろうとして上げた男の足にゲンの体が当たって、その男がひっくり返った。

 

ゲンがひっくり返った男に目をやると、男というよりもまだ中学生高学年ぐらいの子どもたちだった。

 

「痛えなあ、なにするんだよ、このクソジジイっ!」

 

その一声で、一人の中学生ゲンのビニールハウスから転がりでていたバットを拾い上げ、ゲンの肩に思いっきり振り下ろした。

 

「グギッ」と変な音がしてゲンは崩れ落ちた。

男三人が群がって蹴った。

 

「今度こそ死んだのかな?」

「やべえ、逃げるぞ」

「この辺はもういねえから、次の場所を探そうぜ」

そういいながら中学生ぐらいと思しき男三人は逃げ去っていった。

 

「まだ意識がある。救急車だ!」

 

ここは、俺の居場所じゃない。

俺が求めているのはこの女(ひと)じゃない。

俺が憧れた家庭はこれじゃない。

俺の子供はこんな子じゃない。

男はそう思いつつ救急車の中で息絶えた。

 

「へへ、この前のじじいあっけなかったな」

「病院に行く前に救急車の中で死んだとよ」

「ゴミゴロは死ねばいい」

「多摩中の近くってブルーシート少なくねえ」

「そりゃあ俺たちが退治しているからだろう」

三人の笑いが漏れる。

「もう少し下流に行くと、幾つかブルーシートがあるから、今度はそっちのほうへ遠征するか」

「おもしれえ」

多摩川左岸にある中島公園でチャリに乗った中学生三人が、チャリに乗ったまま楽しげに話していた。

 

「俺のじいちゃんばあちゃん家(ち)この近くなんだぜ」

「そうなの?」

「今じゃ誰も住んでないんだ」

「亡くなったのか?」

「いや、分からないんだ。ばあちゃんがいなくなって、そのうちじいちゃんもいつの間にかいなくなったんだよ」

「じゃあ空き家かよ」

「そこ、秘密基地にするべ」

「ダメだよ、じいちゃんとばあちゃん家(ち)なんだから」

「行くだけ行ってみようぜ」

「案内しろよ」

「見るだけだよ」

 

「ここなんだよ」

「なんだよ、ボロい家だなあ、それにちいせい」

「・・・」

「この葉っぱの大きな木が凄えな、道路にまで出て迷惑じゃんかよ」

「じいちゃんが父さんたちのために植えたらしい」

「なんだか白っぽいようなちゃ色っぽ花がいっぱい咲いて落ちてんな…汚え」

「甘い柿がいっぱいなるらしい」

「どんなじいちゃんだった?」

「長いこと会ってないから覚えてねえよ」

 

「ふ~ん」

「なんだか気味が悪い感じの家だな」

「変なこと言うなよ、じいちゃんとばあちゃんの家(うち)なんだから」

「ジジイとババアのふたりとも行方不明って、凄えよな」

「どこに行ったんだろう」

「ばあちゃんは男のところに行ったんじゃないかとか、親が話していた」

「ババアのくせにかよ」

「やるじゃん」

 

「じいちゃんはばあちゃんが出ていってから、じいちゃんもふらっと出ていったり、たまに帰ったりを繰り返していたらしいけど…」

 

「お前のじいちゃんがばあちゃんを殺していたりしてな」

「変なこと言うなよ、そんなわけ無いだろう」

「いや、案外そうかもな」

「けっこう、この柿の木の根元に埋めてあったりしてな」二人の男が声を出して笑う。

「んで、河原でゴロやってたりしてな」

「もう、行こうぜ」

「ターゲットを見つけてしばらく様子を見てからじゃないと、ゴロ狩りがバレたりしたら大変だからな」

 

一人が「でかい柿の木だからやっぱりおまえのばあちゃんは、じいちゃんに浮気がバレてこの柿の木の下だよ」って言いながら、チャリに乗って多摩郵便局のある河川敷の方向に漕いでいった。

 

後に続いて二人もチャリに乗って追いかけて行く。

 

ところどころが血のように赤く変色した柿の木の病葉(わくらば)が一枚、ひとすじの風に煽られ舞って地に落ちた。

 

 

2020年6月25日